信仰告白と証       

 われ公平を準縄(はかりなわ)とし正義を錘(おもし)とす 

 かくて雹(ひょう)はいつはりにてつくれる避所(さけどころ)をのぞきさり 

 水はその匿(かく)れたるところに漲(みなぎ)りあふれん」  イザヤ書28:17


 ここに わが救い主、イエス・キリストへの信仰を告白いたします。

 私は大学在学時にキリスト者となり教会に集う者となりましたが、その時分の信仰は幼子の如く、

 神の言葉を咀嚼できないまま、無為に時間を過ごし、キリスト者にありながら世のふるまいに染まり

 昨今に至ってはキリストへの信頼も風前の灯火にも似て消え入りそうでした。

 しかしながら教会へ集う習慣だけは続けていたため、聖書に触れる機会も完全に失われることを

 避けつつも、弱弱しい神のシグナルだけを半ば諦めの気持ちで保っていた状態でした。

 

 キリストの恵みに預かりながらキリストを知らない者の如き生活を送っていたと言っても過言では

 ありません。私の態度や言葉で大勢の人たちを傷つけたことと思います。

 そして永い間、私の内面に大変な葛藤があり、ついには気持ちの収支が合わなくなったところで

 私は祈りの中、すべてをキリストの前に降参いたしました。 

 今や私の持てるものは何もありません。

 私は無力で、裸で生まれて来た者です。自分の力で成したと思うことは結局は私からの

 ものではなく、わが主の計らいと恩寵によるものと断言いたします。

 

 フラワームーンは私が一時的に管理を託されている店であるという意識は当初からありました。

 が今、さらにその念は明瞭になり、「神が与え、神が取り去り給ふ」という信仰を喜んで奉じ、実践

 する空間であると捉えております。 このサイトを開いて以来、私の罪の性質ゆえ、「商業サイトに

 自分の信仰を表明してはマイナスになる」と判断し続けておりましたが、それこそ神の権威を

 ないがしろにし、自己の利益を優先するだけの似非キリスト者として、恥を広める行為です。

 

 キリストの教えに沿いつつ生涯を閉じていった偽りのない、キリスト者の先達に倣い

 私も人生の最初にキリストを置くことを心に決めました。そして私のような罪にまみれた者でも

 キリストの贖いで一切の罪を赦して下さり、人生に意味を与えて下さることを信じます。

 

 アッシジの聖フランチェスコ、マザーテレサ、印度のヒマラヤで消息を絶ったサンダーシング、

 米国の良心ジョナサン・エドワード、孤児院を祈りだけで支え続けたジョージ・ミューラー・・・

 一切の所有権を神に委ねた信仰の証人の如く、今後は弱い立場の方、必要を満たされず、嘆きに

 ある方のために、あらゆる思想、信条、信仰の有無、信仰の種類、貴賎にかかわらず、また社会的

 地位がどうあろうとすべての階層に対して、キリストがそうしたようにすべての人を受け入れ、

 神様がひとりひとりに特別な計画を持っておられることを伝えたいと思います。

 

 繰り返しですが、私は何も持たない者です、明日のことを予測できない者です。

 そして私は罪に汚れた生活を送っておりましたがキリストの十字架で罪を赦されました。

 そして神による自由を得ました。

 私の剣は聖書と神への祈りだけです。 

 このふたつは何物にも換え難い武の基です。もし無人島に流されるとしたら私は聖書だけは

 必死の思いで携えていきたいと思います。

 読んでくださった皆さんに神様の救いがありますよう・・・・

 

                     2008・2・20

 

                     フラワームーン マネージャー  天本 敏文

 追記    2010・7・31

 昨今は社会不安を煽り、それを利用した宗教ビジネスの勃興、あるいは人の心を弄ぶことが散見されます。
 残念ながらキリストの名を騙り人をマインドコントロールする輩もおり、教会内ですらキリストよりも
 ある特定の指導者、著名な伝道師の業績ばかりが祭上げられ、逸脱すれすれの所も在ります。
 カルト性のあるやなしやを判断するのは並大抵ではないでしょう。それほど巧妙だからです。

 何卒、お気をつけください。信仰はいかなる状況でも個人の中にあるものであり、決して恐怖や利益によって
 打建てられるものではありません。目に見えるものほど不確かなものはありません。ましてやキリスト教会で
 牧師自身の権威主義などあってはなりません。キリストであるイエスが何を言ったか、が大事なのです。
 己の心を神様以外の誰にも渡してはなりません。